樋口季一郎と現代

1945年8月、日本と連合国は戦闘停止と武器収めの約束を交わしたはずでした。しかし、その直後、連合国の一員でもあったスターリン率いるソビエト・ロシアは、停戦の機運に乗じ、北海道への侵攻を開始し、さらに福島県を占領、首都東京を分割統治して日本をドイツのような分割国家にしようと企てていたという新たな資料も近年、マッカーサー記念館で発見されています。
そんな混乱の中、第5方面軍を率いた樋口季一郎中将は、樺太や千島で命がけの防衛戦を展開し、ソ連軍の侵略を食い止めることで、今日の平和な日本を守る礎を築きました。さらに、彼は戦時中、多くのユダヤ人難民を救い出すなど、単なる軍事防衛に留まらない人道主義的行動により、「ユダヤ難民を助け、北海道をソ連軍の侵攻から守り、日本を分断から救った軍人」と高く評価されています。

また、現代においてロシアのウクライナ侵攻は、かつてソ連が樺太・千島に攻め込んで、北海道侵攻作戦を通じて日本分断を狙った過去を彷彿とさせます。
こうした背景から、ロシア問題専門家として活躍した樋口季一郎中将(1888-1970)の生涯とその足跡を、現代に生きる私たちが日本の平和を考える助けとして伝えていきたいと考えています。
樋口季一郎中将年表
1. 陸軍士官としての初期(1919~1937)
1919年
• 陸軍大学校卒業、ウラジオストク特務機関員としてシベリア出兵に従事。大尉。
• 日本軍と日本赤十字社の協力でポーランド孤児765名を救出。評価される。
1920年
• ハバロフスク特務機関長として派遣されるも孤立状態となる。
• 暇を持て余し、ピアノを学習。
1925年
• ポーランド公使館付武官(少佐)としてワルシャワに赴任。
•ポーランド軍の大演習(仮想敵国:ソ連・ドイツ)に日本代表として参加。
• イギリス代表のアイアンサイド少将、米国代表のマッケンネー大佐と同乗し、世界情勢の裏面を学ぶ。
• ワルツの名人となり、社交界で人気者に。
1928年
• ソ連の武官の厚意で、コーカサスやウクライナを視察。
• グルジア・チフリス(現トビリシ)のユダヤ人玩具店の老人から「日本の天皇こそメシア」と称される。

2. ナチス・ユダヤ人問題と情報戦(1937~1941)
1937年3月
• 参謀本部付としてベルリンに出張し、ナチス・ドイツを視察・研究。
• 大島浩武官の後任として待機するが、廬溝橋事件の勃発により本国召還。
1937年8月
• ハルビン特務機関長(少将)としてソ連の動向を監視し、満州国内の治安維持を担当。
1937年12月26-27日
• 第1回極東ユダヤ人大会に出席し、イスラエル建国につながる歴史的発言を行う。
1938年1月25日
• 関東軍の東条英機参謀長が「現下における対ユダヤ民族施策要領」を発表。
1938年3月
• オトポール事件発生。
• ナチスの迫害を逃れ満州に流入したユダヤ人難民を救済。
1938年8月
• 参謀本部第二部長(情報部門のトップ)に就任。
1939年5月
• 汪兆銘を重慶から脱出させ、ハノイ経由で東京へ迎える(影佐禎昭機関)。
1939年8月23日
• 独ソ不可侵条約締結。
• 参謀本部第二部(樋口の部門)がバルト海沿岸に諜報拠点を構築。
• ストックホルム(小野寺信武官)、ヘルシンキ(小野打寛武官)、カウナス(杉原千畝領事代理)を拠点とする。
1939年12月
• 金沢第九師団長に就任。
• 管内の敦賀港が欧州からの秘密外交文書の到着地となる。
1940年7-8月
• 杉原千畝による「命のビザ」発給に協力。
1941年
• ナチス・ドイツがリトアニアを侵攻し、ユダヤ人19万5000人が虐殺された。

3. 北海道防衛と終戦(1941~1945)
1941年12月8日
• 札幌北部軍司令官に就任。
• 軍司令官官邸は現在「つきさっぷ郷土資料館」として保存されている。
1943年
• 北方軍司令官に就任。
• アッツ島玉砕、キスカ島撤退(対アメリカ戦)。
• キスカ島撤退時、「武器は金で買えるが人命は買えない」として、武器を海中投棄させ、5500人の兵士を救出。
• 生還した兵士は樺太や千島に再配置され、後のソ連軍との戦いに参加。
1944年
• 第五方面軍司令官(北海道・樺太・千島防衛)。
1945年2月
• 参謀本部の使者より、ソ連の参戦の可能性を伝えられる(ヤルタ密約情報?)。
1945年7月23日
• 阿南惟幾陸軍大臣が札幌訪問(北海道防衛について協議)。
1945年8月9日
• ソ連が対日宣戦布告、満州・樺太へ侵攻。
1945年8月12日
• 樋口の訓令:「宿敵ソ連遂に我に向かって立つ。怒髪天をつく」と発し、全軍に奮起を促す。
1945年8月15日
• 終戦の詔勅(玉音放送)。
1945年8月16日
• スターリン、トルーマンに「満州、朝鮮北部、南樺太、千島、北海道北部(留萌~釧路以北)の領有」を要求。
1945年8月17日
• 大本営、大命を発し「戦闘停止。ただし自衛行動は妨げず」。
1945年8月18日
• ソ連軍、占守島へ無警告上陸。
• 第91師団(堤不夾貴中将)と戦車第十一(士魂)連隊(池田末男大佐)が反撃し、ソ連軍を阻止。
• その後、大本営が停戦を命じる。
1945年8月19日
• トルーマン、スターリンの「北海道北部領有要求」を拒否。
1945年8月21日
• 千島第91師団が停戦。
1945年8月22日
• 樺太第88師団が停戦。スターリン、北海道占領を断念。
1945年8月23日
• スターリン、「日本軍捕虜50万人のシベリア抑留」決定。
1945年8月25日
• 樺太方面が降伏。第五方面軍司令官の作戦任務終了。

4. 戦後(1946~1970)
1946年3月
• 北部復員官を解任、小樽に隠棲。
• 米軍取調官のジム・キャッスル中佐から「人道主義者」として評価される。
• ソ連は逮捕を要求するも、英国が大反対。
1947年12月
• 宮崎県小林市に転居(後に都城市へ)。
1960年
• 神奈川県大磯町に転居。
1968年7月
• 札幌護国神社で「アッツ島玉砕雄渾の碑」除幕式・慰霊祭に参列。
1970年
• 東京都文京区白山に転居。老衰のため死去(享年82歳)。
樋口季一郎中将は、占守島の戦いを指揮し、北海道侵攻を阻止した英雄であり、戦時中にはユダヤ人救済にも尽力した日本陸軍の名将であった。